翠(みどり)皮フ科・アレルギー科

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カバーマークオリジナルおよびダドレスについて

◎アザや傷あとなどの皮膚変色で悩みを持つ方にために開発した化粧品です。
 カバーマークという名前をご存じでしょうか。ニューヨークのリディア・オリリー氏が開発された化粧品です。リディア・オリリー氏は、アメリカで生まれました。彼女は幼い頃から赤アザで悩んでいたそうです。大人になった彼女は、自らで化粧品を作ることを決意し、皮膚変色をカバーするための化粧品「カバーマーク」を発明いたしました。現在日本では「カバーマークオリジナル」というブランドで販売されています。カバーマークオリジナルの開発、日本に紹介されるまでの経緯、そしてカバーマークオリジナルを含めたメディカルメイクのついては、後半で記載します。理念について共感できるところも多いと思いますので是非ともお読みいただければ嬉しいです。

◎カバーマークオリジナルはいろいろな皮膚変色でお悩みのある方に対応しています。
 母斑、血管腫、白斑、炎症後の色素沈着、傷あとの変色、レーザー治療後の紫外線防止、タトゥーなどの皮膚変色に幅広く対応しています。私たち皮膚科医は、いろいろな病気を治療し、お肌の状態を患者さんのご希望に応えるべく努力しております。翠皮フ科・アレルギー科においても、ルビーレーザー治療を行っており、色素病変に対しての治療を行っております。しかしながら患者さんのご希望すべてを実現できません。そういう人たちにもお化粧という手段で少しでもご希望に近づけることができればそれは喜ばしいことだと考えています。外見の悩みというものは、他人にはなかなか理解されにくいものであります。しかし、その悩みをもっている人にとっては、その悩みは生きていく希望を失わせるくらいとても深いこともあります。私たち皮膚科医は、皮膚を治療するだけでなく、その悩みに対するケアもすることがとても大切であると感じております。
 カバーマークオリジナルはいろいろな皮膚変色に対応しているだけでなく、老若男女を問わず身体のどの部分にもご使用いただけます。生後3ヶ月の乳児からご使用いただけます。また汗や水に強く、一日中長持ちします。少し工夫をすることによって、色が衣服に付くことを防止し、気にすることなく使用することができます。紫外線からも十分な防御機能があります(SPF50+)。18色のベースの色からお肌にあう色を作ることができます。翠皮フ科・アレルギー科のルビーレーザー治療を行ったあとに使用しても効果的であると思います。
 顔以外の部分でカバーマークオリジナルを使用しようとすると、衣服についてしまうことや、汗で落ちてしまう心配があると思われます。カバーマークオリジナルはこれを防ぐ方法もございます。特に夏の露出の多い時期にはとても大切なことだと思います。後述するカウンセリングをご利用ください。

◎白斑の方には、ダドレスという皮膚に色をつけるものもあります。
 尋常性白斑という病気や、日焼けのしすぎなどで手の甲や腕、顔の一部の皮膚が色が白く抜けてしまうことがあります。ダドレスは、その部分を一時的に着色して症状を目立たなくするための着色用化粧水です。ダドレスを塗布すると、肌色に近い色が着色し、症状が目立たなくなります。色は塗布した後約3時間後から徐々に発色し、約6時間で、色が定着いたします。一度着色すれば、洗ってもこすっても色は落ちません。着色後、約2?3日が色が持続します。塗布回数によって色の濃さも調節することができます。色調がまわりのお肌と合いにくい場合は、カバーマークオリジナルを重ねて使用していただくことで、さらに良い状態にすることができます。ダドレスは無色透明の液体で塗った場所が分かりにくいという人もおられます。色つきタイプのダドレスCもあり、塗った場所が安心して確認できます。

◎カバーマークオリジナルやダドレスを使ったカウンセリングもあります。
 カバーマークオリジナルやダドレスを販売しているグラファラボラトリーズでは、皮膚変色で悩みのある方にメイクアップのカウンセリングをしています。病気でないシミでお悩みの方も受けることができます。カウンセリングを実施するのは、皮膚変色の症状をもつ女性のインストラクターです。詳しくは後述しますが、同じ悩みを持つ方だからこそカウンセリングができるという考えで彼女たちがいます。カウンセリングについての詳細はこちらを参考にしてください。いろいろとお悩みの方は是非ともお勧めいたします。

「カバーマークオリジナル」と「カバーマーク」は異なります。
 「カバーマークオリジナル」と「カバーマーク」は似ていますが、実は異なるものです。どちらもピアスグルーブの企業で、1960年にオリリー株式会社からともにスタートしています。百貨店などで販売する化粧品について1992年にカバーマーク株式会社を設立し、「カバーマーク」ブランドで一般化粧品として販売しています。「カバーマークオリジナル」は2002年にグラファラボラトリーズ株式会社を設立し、オリリー株式会社からメディカルメイク部門を引き継いで「カバーマークオリジナル」と改名して販売をしています。「カバーマークオリジナル」は百貨店では販売していませんので、お間違いのないようにご注意ください。「カバーマークオリジナル」や「ダドレス」の販売については、こちらを参考にしてください。
 またメディカルメイク用の「カバーマークオリジナル」でも一般化粧品としても使用できます。前述したとおりいろいろな皮膚変色に対応しているだけでなく、老若男女を問わず身体のどの部分にもご使用いただけます。

◎どんな化粧品も安全性は高いですが、ごくまれにお肌にあわないこともあります。
 化粧品は、毎日使用するものですので、ほとんどのメーカーは安全性にはかなり気を配っています。かぶれるという評判になるとそれは信用問題に関わるからです。日本の化粧品メーカーや欧米の化粧品メーカーでは安全性に関しての試験は十分に行われています(アジアなど他の地域はわかりません)。しかしながら、どんなに試験を繰り返して安全性を確かめても、どうしてもお肌にあわないという方は出てきてしまいます。化粧品で100%絶対に安全だというものは存在しません。それは医薬品でも副作用が絶対におきない薬がないのと同様のことです。お化粧品を利用されるときにはこのことをご理解いただきます様にお願いいたします。

ここからはカバーマークおよびメディカルメイクの歴史的経緯などを記載します。是非一度お読みください。

◎リディア・オリリー氏の想いがカバーマークオリジナルに詰まっています。
 リディア・オリリー氏は1901年にアメリカのニューイングランド州ボストンに生まれました。左目の下に赤い斑点があったそうです。ポートワイン・ステインという血管腫と言われる病気であったと推測されます。医者からは、数年で消えるかもしれないといわれたみたいですが、実際は成長とともに大きくなっていきました。
 オリリー氏は、小学校の頃にこの血管腫が、当時の医学では治療ができないことを知り、性格は暗く、孤独な女の子になってしまったと言います(ポートワイン・ステインは現在はVbeamなどの色素レーザーを使用することでかなり改善が期待できます)。彼女の両親は治療にたくさんのお金をつかいましたが結局は改善をすることはできませんでした。
 やがて、彼女は大学に進学し、化学を専攻しましたが、孤独な彼女は絵ばかりを書いていました。その後恋をして明るくなりましたが、彼女の左目の赤アザだけは次第に大きくなっていきました。
 誰にでも悩みやハンディはあるし、ハンディの分だけ少しだけ努力すればいいと励まされたオリリー氏は、一生懸命努力し、勉強をしました。彼女は大学卒業後にニューヨークに行き、就職を探しましたが、赤アザという外見の影響で、希望通りの就職はできませんでした。
 再度孤独な状態に戻った彼女は、ニューヨークでも絵画に没頭しました。しかしその絵画を描いているときに、色が他の色でカバーできるということに気づきました。それがカバーマークの原点です。自分の顔に絵の具でカバーできることを知った彼女は研究を始めました。彼女は大学で化学を専攻していたこともあり、その知識を使っていろいろなのもので試してみました。最初はうまくいきませんでしたが、彼女の粘り強い努力でとうとう彼女自身が満足できる化粧品を作り上げたのです。それがカバーマークでした。今のカバーマークオリジナルには彼女の努力と熱い想いが込められています。
 カバーマークには、美しく見せるメイクアップという概念だけでなく、皮膚変色を美しくカバーし、心身ともに健やかな状態で過ごせるようにというメディカルメイクという考えがあります。

◎自分のために作ったもカバーマークが、人の役に立つものになりました。
 カバーマークは、当初は彼女が自分で使用するためのものとして開発したものでした。ある時に病院に行ったときに顔にアザがある少女を見たことがきっかけで、カバーマークを人の為に使ってもらうことを決意しました。そうして自宅の一角に相談室を構え、同じ様な悩みを抱えている人たちのたくさんの相談に応えていまいした。カバーマークは毎日使用するもので、安価で提供するべきであり、品質を保持するためには特許をとるべきだとアドバイスを受けました。しかし当時のアメリカでは、化粧品は特許が認められませんでした。オリリー氏は、カバーマークは、困っている人たちにとっては薬であると主張しましたが、聞き入れられませんでた。そこで彼女は裁判をおこしました。
 あざのある人に対してカバーマークは薬であると訴えましたが、判事の考えは変わりませんでした。1928年(昭和3年)のワシントン控訴院でもあざを持っている人たちにとってカバーマークがどんなに大切なものであるかを切実に訴えても心には響きませんでした。審議が終わろうとするときに、オリリー氏は自らの顔のカバーマークを拭き取りました。そして、あざで苦しみ悩み抜いたこと、カバーマークがあったからこそ救われたことを語りました。特許がなければ、高価なものになってしまう恐れがあることも話しました。傍聴席からは賛同の拍手があり、そうして8人の判事全員がカバーマークに対して化粧品としては初めて特許を認め、さらには国家が支援すべきものであるとして免税の措置までつけました。こうしてオリリー氏のカバーマークを用いたメディカルメイクが広く知れ渡る礎になりました。
 アメリカのカバーマーク社は、この特許が"cosmetics(化粧品)"と"pharmaceuticals(医薬品)"を合わせた"cosmeceuticals"をつくったと紹介しています。オリリー氏の作ったカバーマークが、皮膚に悩みをもっている方々にとっては薬同然であるということを言い表していると思います。

◎日本人で一番最初に使用したのは原爆に被爆した若い女性たちでした。
 特許取得の裁判と前後してオリリー氏は会社を立ち上げました。彼女はカバーマークおよびメディカルメイクをさらに広めるために必死で働きました。多忙を極め、人手としてメディカルメイクを広める技術者が必要でした。それがカバーマーク・アーチストという皮膚変色を隠すためのメイクテクニックと精神的な相談を受け付ける技術者にです。そしてカバーマーク・アーチストには彼女と同じ様な症状のある人たちを採用しました。同じ悩みを持ったものたちだけが理解し合える絆があるからです。カバーマークは肌をうまく見せるだけでなく、心のケアも含めていろいろな方の皮膚変色の悩みに応えていきました。
 1945年に太平洋戦争(第2次世界大戦)が終わりましたが、日本は終戦直前に、広島と長崎で原子爆弾の被爆をうけたくさんの犠牲者が生まれてしまいました。怪我や病気もさることながら、皮膚のケロイドも多くの方が悩まされることになりました。1950年に被爆した日本人の少女たちがアメリカにケロイド治療のために招かれ、その治療の補助手段として、リディア・オリリー氏の相談室を紹介されました。オリリー氏は、原爆の悲惨な現実に対して心を痛め、被爆者の若い女性たちにメディカルメイク技術と必要な化粧品一式を授けました。カバーマークを使用した被爆者の彼女たちは、生まれ変わって日本に帰国いたしました。

◎日本でのカバーマークおよびメディカルメイクの発展は澤田美喜氏の努力がありました。
 カバーマークとメディカルメイクの日本への導入の歴史に際して、澤田美喜氏の尽力を抜きにしては語れません。彼女がいなくても今の日本にカバーマークは導入されていると思いますが、彼女の強い情熱があったからこそ、日本でも早い段階で導入ができ、およそ50年以上という長い歴史を持つことができました。澤田美喜氏は、1910年(明治43年)に三菱財閥の岩崎家に生まれました。祖父の弥太郎は三菱財閥の創始者でありました。夫の澤田廉三氏は国連大使を歴任した方です。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)終了後、日本人の女性と、進駐してきたアメリカ軍兵士との間にできた混血児が捨てられているという現実がありました。彼女はこの孤児たちを孤児院で育てることにしました。その孤児院が「エリザベスサンダースホーム※」といい、神奈川県大磯町にあります。
 混血児は、肌の色が違うと言うだけでいじめられたり、差別をうけていました。その混血児たちの肌の色による種々の問題を解決したいと考えていました。その手段の一つとして、澤田美喜氏はカバーマークを日本に導入したいと考えていました。そうして1959年(昭和34年)にリディア・オリリー氏のもとを訪ねていきました。
 エリザベスサンダースホームの支援者の一人に阪本匡弘氏がいました。阪本氏はピアス株式会社という化粧品メーカーの社長で、一代で大きな会社にした経営者でした。澤田美喜氏は、阪本氏にカバーマークを日本に導入する上で、協力を頼み、1960年(昭和35年)に日本に導入されることになりました。それが日本でのカバーマークの本格的な歴史の始まりとなりました。
 現在、ピアス株式会社は、ピアスグループの中心として、化粧品を中心とした事業を行っています。その中の1つが、現在カバーマークオリジナルを扱っているグラファラボラトリーズという会社です。当初はピアス株式会社の子会社としてジャパン・オリリー(オリリー株式会社)を設立し、カバーマークを扱うようになりました。リディア・オリリー氏のように肌に悩みを抱える社員が、カバーマークおよびメディカルメイクを広める努力をいたしました。また美容師を中心とした方々が、オリリーエイドサロン会を作り、各地の美容室で全国にカバーマークやメディカルメイクを普及させていきました。後述する財団法人日本リディアオリリー協会やNPO法人メディカルメイクアソシエーションなど社会貢献も行っております。

◎デモンストレーションを拝見して、メディカルメイクの大切さを改めて思い知らされました。
 翠皮フ科・アレルギー科を開院する数年前に、ある勉強会においてグラファラボラトリーズのカバーマークオリジナルおよびダドレスのメイクアップの実演を拝見しました。その時にカウンセラーの方々が、自らの悩みを持つ皮膚を利用してデモンストレーションをしてくださいました。彼女たちはこれが仕事とはいえ、できることなら隠しておきたい部分を見せて私たち皮膚科医にメディカルメイクの大切さを改めて理解をさせてくれました。私はそれに深い感銘を持ちました。今回このカバーマークおよびダドレスを紹介するにあたり、東京および大阪のカウンセリングルームも見学いたしました。そしてカウンセリングをしているインストラクターの方々ともお話をしました。リディア・オリリー氏のカバーマークで皮膚の悩みをもつ方々の役に立ちたいという思いは間違いなく引き継がれていると確信しています。
 1975年(昭和50年)には、財団法人日本リディアオリリー協会が設立され、皮膚科学や形成外科の発展のためにさまざまな研究助成を行い、皮膚の変色などの治療のバックアップを行っています。医学や医療の発展とは別に、メディカルメイクの発展や、皮膚変色をもつ方々の支援などを目的として、2001年(平成13年)にNPO法人メディカルメイクアソシエーションが設立されました。これは一つの会社にとらわれることなく、大きな枠での活動となってきています。
 ちなみにこのホームページではメディカルメイクという言葉で表現をしていますが、カモフラージュメイクとも言われています。アメリカのカバーマーク社は、Cosmetic Comouflage(コスメティックカモフラージュ)と表現しています。

 リディア・オリリー氏は人生のなかで紆余曲折があってカバーマークを作り、メディカルメイク発展してきました。日本においてもいろいろな方の支援があって広く発展しています。それでもまだまだご存知でない方も多く、本当に必要とされる方々に少しでも知っていただきたいと願っています。皮膚変色をもつ方々にとって、「カバーマークオリジナル」や「ダドレス」などメディカルメイク用化粧品は、薬同然に使用されおり、人々の皮膚を改善するだけでなく悩みをもった心までも回復させています。このページを読んで必要とされている方の少しでもお役に立てれば幸いです。

エリザベスサンダースホームおよび聖ステパノ学園について
 1948年(昭和23年)に澤田美喜氏が、財産税として物納されていた岩崎家(三菱財閥創業家であり澤田氏の実家)の大磯別邸を募金を集めて買い戻して孤児院として設立しました。1953年(昭和28年)には、エリザベスサンダースホームに生活する幼児たちが成長し就学年齢に達し、学校法人聖ステパノ学園小学校が設立され、エリザベスサンダースホームと隣接しています。当時の社会状況では、孤児院の子供たちの外部の小学校への受入れ状況が順調でなかったそうです。1959年(昭和34年)には中学校も設立されました。現在もエリザベスサンダースホームおよび聖ステパノ学園はあり、1955年(昭和30年)には昭和天皇・皇后陛下、2002年(平成14年)には、今上天皇・皇后両陛下のご訪問があります。

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